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出生・幼少時代

1940年11月27日、サンフランシスコで 役者の両親の5人兄弟の次男として生まれた。 幼少より中国武術の詠春拳のイップ・マンの指導で中国武術を身につける。

渡米・結婚

リーの将来を心配した父は、渡米を命じる。

18歳のリーは単身渡米し、シアトルに移り住む。シアトルセントラル・カレッジに進学。 勉学に励むかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始める。 その頃、道場の生徒だったリンダ・エメリーと結婚。 大学を中退し、道場経営に専念。截拳道(Jeet Kune Do/JKD/ジークンドー)を創始する。

武道家からアクションスターへ

1966年、TVシリーズ『グリーン・ホーネット」に抜擢され、派手なアクションで人気を博す。 これをきっかけに、ハリウッドの俳優やプロデューサーを顧客に武術の個人指導をするようになり、 TVや映画などの出演を重ねる。

主演映画『ドラゴン危機一発』が香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになった。

主演第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当。

3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら「コンコルド・プロダクション」を設立し、 製作・監督・脚本・主演の四役を担った。

3作によって、リーは香港でトップスターの地位を築き、1972年からリーの2作目の監督映画 『死亡遊戯』の撮影がスタートする。ところが、ハリウッドのワーナー・ブラザーズと コンコルド・プロダクションとの合作映画の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の製作は中断される。

1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』(ロバート・クローズ監督)の撮影が始まる。

死去

1973年7月20日に、リーは頭痛を訴え、鎮痛剤を飲んでベッドに横になった。しかし、 そのまま昏睡状態に陥ったため、クィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、死亡が確認された。 死因は鎮痛剤の相互副作用での脳浮腫という病気。 32歳であった。

遺体はシアトルのレイクビュー墓地に埋葬された。